茶陶と茶の湯についての短評

茶陶と茶の湯についての短評

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01 : 王羲之の行書から長次郎へ

Chôjirô-長次郎 & Ogishi–Wang Xizhi-王羲之

 

仮説 「長次郎の様式は王羲之の行書の規範を碗に適用したものである」

楽家初代の作と言われている碗は(田中宗慶作と言われているものも含めて) 、楽家の歴代の作品、またはその他の茶陶家の作品の中でも(おそらく本阿弥光悦を除いて)ずば抜けた傑作であるという評価が高い。

長次郎の碗は、ひとつの様式に則っており、形、色、質感の体系的な規範は、驚くほど王羲之の千字文の行書に近い。(千字文は、歴史上最も優れたアジアの書道家、王羲之の書とされている筆跡の模写を復元したもので、その後あらゆる字体の手本となっている)

その技法とは

  • 非対称であること
  • 間のとり方
  • 流れがあること
  • あるがままの、宇宙の一部分として

02: 綱渡り芸人の動き(注)

S'empêcher de faire ahhhhhhこの急須を見た途端閃いたものが、たちまち私を、“根付”の世界に結び付けてくれた。(清宗根付館は京都壬生寺の裏にあり、一度は尋ねてみる価値のある美術館である)

根付の形状は、その物の用途に適った単なる外装ではなく、形と働きとが、あたかもひとつの有機体のように一体となっているのである、“動き”を通して。

急須から根付への扉を開ける鍵は、この“ 動き”にあった。この“動き”が、実に驚くべき引き金となって扉を開かせたのである。

これまで私は、“ タオは流れである”と単純化してきた。つまり、曲線の流れとして。“動き”は、タオに於いては、近づこうとする力と離れようとする力を繋ぎ合わせる“力学”である。それはベクトル、すなはち、“大きさ”と“方向”を持つ“ 力”であるが、“場”ではない。“動的”であるが“うねり”ではない。タオは、点ではなく、連続的な流れである。しかし、“動き”は、滝の中の渦なのである。

西洋の芸術には、この“ 動き”が無く、あるのは“静止”。一方、この急須や根付、あるいは日本の芸術作品に描かれている人物像、例えば、川瀬巴水や北斎の作品に見られるのが、この“ 動き“なのである。

歌舞伎はこの“ 動き“を誇張した風刺であり、” 動き“の逆説的な否定である。能、狂言は” 動き“の本質にぴたりと照準を定めたものである。

私は、長次郎の様式と王羲之の行書との相関関係について仮説を立てた時、まだ

断言こそ出来ないが、それこそまさにこの“ 動き“であると、確信したのである。行書には、楷書の王朝的儀礼がなく、そこに見られるのが、筆の“ 動き”である。草書は、普段着を着た若者がくつろいでいるような、少し姿勢を崩したような“ 動き”がある。

長次郎の作品において感ずるのは、広大な宇宙にそそとして佇んでいる、というのではなく、そこに“ 今にも動き出しそうな何かがある”という存在感、その動きの中から現れてくる魂、言葉を必要としない魂を見て取れる、ということである。それはまさに、人の膝に頭を乗せた子犬のような、動物の生命の躍動のようなものである。行書の“動き”は、人間の認識と動物の欲動との見事な均衡である。この綱渡り芸人こそ、人間の表象と言えるだろう。

 

(注)ここで言うmouvement は、“動き”ではあるが、実際の“ 運動”では無く、次の瞬間に動き出しそうな、動きに向かう微妙な振動が感じられる、というような“ 動き”である。

 

03 : 体の線が非の打ち所が無いなら衣は要らない

 

Sur une carte restée trop longtemps dans le Ricoh - 10難しいのは碗の輪郭の線と、均質な表面をどんな色でどんな質感にするかとを、調和させることである。とりわけ現代の電気窯では、微妙な温度調節が可能な余り、炎や灰がでない。ということは、出来上がった碗の表面は均質的で、でこぼこがなく、すべすべしたものになる。一方、伝統的な薪を燃料とした窯では、碗の表面は地球創成期の地層を想起させるようなものになる。ただ、ここで避けなければならないことは、言わば “アクションドリッピング” (注1)の『どうだ、見事だろう』というような、つまらぬ自惚れにならないこと。

要は、思いも寄らぬ発見、“セレンディピティ” (注2)を引き起こさせること、と同時に余りにも強過ぎるコントラストは避けなければならない。

長次郎曰く

“碗の線が非の打ち所がないなら、表面が代わり映えしなくても、ものともしない”

 

アクションドリッピング(Action dripping) : 20世紀のアメリカの画家、Jackson Pollock の絵画の手法で、キャンバスを床に置いて、絵具缶から直接絵具を滴らせる独自のスタイルを展開した。ポロックは、キャンバスの周辺を動き回りながら描いたため、アクションドリッピングと呼ばれた。

セレンディピティ(Serendipity) :  求めずして思わぬ発見をする能力、特に科学分野で、失敗が思わぬ大発見につながったときなどに使われる。

 

 

04: 物語、儀式、鏡

 

命題 「次の3つの条件が備わっている茶陶器を名器と呼ぶ」

1 物語

茶陶器は、その由来が語られなければならない。

まず、どの様にして作られたか、どの様な技法で誰が作ったか、そして何家伝来のものであるのか。こうして、語られた物語が、極めて客観的で、考えられる限り事実であると受け入れられた時、この物語は永久に史実となる。

「お願いだからお話しして!」とせがむ子どもの様に、人間にとって物語は、生きていくのになくてはならないものである。井戸茶碗物語、長次郎物語、あるいは、今はもう失われてしまった様々な技法にまつわる物語が我々には必要なのである。

つまり“物語とは、このように意識的に言葉を使う経験である”

 

2 儀式

茶陶器は、シャーマニズムのような、儀式の役割をもたなければならない。

というのは、我々は実は、神々とじかに交流する儀式を必要としていた原始人のままなのである。茶道のお手前は、この儀式以外の何物でもない。茶陶器は、神様を入れる器、つまり聖体容器なのである。茶陶器は茶事の儀式を通じて神々や死者達と繋がっていることを感じて共鳴する。人生には、様々な喜びごとや、悲嘆がある。例えば、喪の悲しみ、カトリックにおける聖体拝領、恋愛、健康、罪、そして感謝等…

茶陶器への強い思いは、とりわけこの儀式から生じるものなのである。人々がこの茶陶器に愛着を感じるのは、これらがただ単に世俗から離れた聖なるもの、日常生活のリズムにちょっと変化を与えてくれるものだからというだけではなく、儀式が年中行事として、四季毎に毎年繰り返される、ということの経験を我々に提供してくれるからである。茶事をするにあたって、その日の客の重要さに応じて、微妙に作法を変えたり、あるいは、流派によって作法が少し違っても、口の端でちょっと笑って済ませる程度の変化があるにしても…いずれにしても“ 儀式とは変性意識状態(注)の経験”である。その時、我々は自分より遥かに大きなものと繋がって、自分の境界から抜け出ているのである。

 

3 鏡

茶陶器は、人間の喜怒哀楽の情動に触れるのではなく、もっと普遍的な、根源的な領域に触れるのである。その時、茶陶器は鏡となって我々を取り巻く外界と我々の内側に流れているものを写し出すのである。ただし、それは心理学の観点からではなく、認識形而上学の領域においてである。

フーガは何故身体と共鳴するのか、行書は何故我々の心を打つのか。それは、フーガが「我々もまた対位法的な体のリズムを持っているがゆえにそれが心地よいのだ」と気づかせてくれるし、行書は我々の外側の世界の流れを内側の世界へと流れ込ませる水門となるからである。

「森と私の夢、風と私のおののき、空と私の論証力…」

茶碗において鏡の役目をするのが、器の輪郭の線である。長次郎の碗の持つ力と共鳴するためには、ガラスケースの向こう側にある長次郎に触れる必要はない。自分の内側の世界と外側の世界を知るには、この線を見て響き合うだけでよい。色や肌触りといったどんな技巧も要らない。“ 鏡は無意識の哲学的経験” であり、小さな悟りである。そこでは、宇宙は自らを自分の腕の中に抱え込んでいる。

 

(注) 変性意識状態

通常の日常意識以外の、さまざまな意識状態を示した総称である。例えば、瞑想状態、催眠状態、トランス状態、夢、神秘体験、広くは体外離脱体験まで含まれる。

 

05 : 聖職者・火葬・破損

Oui, ça aussi物語、儀式、鏡から次の様な結論を導き出すことが出来る。
「茶陶器は次の3つの見地から、その茶の湯の社会の中でのみ芸術作品となり得る」
○聖職者
一神教において儀式を司るのは、聖職者だけであるが、多神教では、誰もが正規の儀
式を執り行なうことが出来る。
○火葬
茶陶器は骨壺ともなり、死者を火葬した後、遺灰を入れる。
○破損
茶陶器は、そもそも初めから、その生成の価値基準を永遠性と完全性に置いていない。
茶陶器は一瞬で壊れる。我々のように。

06 : 「もしも粘土が陶器の輪郭に命ずるなら、陶芸家の手は人間の体を立ち上がらせる」

Ca, c'est le génie du Japon : deux feuilles, quatre boules rouges et une caissière du Ryoanji qui crée de l'épure surpuissante qui parle au coeur 輪郭が、4章で述べたように鏡や行書の働きに結びつくということは、我々が、ダーウィンの自然淘汰説による数百万年前の人間の起源以来、ずっと人間中心主義のままであったということである。我々が世界を読み解くためのフィルターは、人間の形を当てはめることに特化している。陶器の輪郭に、我々は絶えず人間の形や顔を投影しているのである。
例えば、陶器の曲線に、腰や胸を思い浮かべるように。あるいはまた、花瓶は首なしの体、それとも透明人間の服だけ、というように。一方、生け花は肖像画である。日本人が花瓶の« 耳 »と呼ぶところは、明らかに腕である。わびさびの形相は田舎のお爺さんそのもの。陶芸家は何を作ろうと、彫刻家なのである。
土の種類によって陶器の輪郭は決められてしまい、陶芸家の手は、何を作っても無意識のうちに人間の体に仕上げている。

翻訳 : 矢野 美穗