彷徨い人

リリース日:2006年5月06日
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01 彷徨い人

星がまだ名前を持たないころ

風は誰のためにも吹かない

山の尾根に

ひとりの影

彷徨い人は目をひらく

鳥の声が何かを告げる

でも言葉はまだ遠い

手のひらには冷たい石

けれどその中に

宝石が光っている

川を渡ると夢の香り

月がじっと見つめて問いかける

「誰を探しているの?」

答えられず

彼は歩きつづける

ぼくはまだ

ぼくになっていない

ぼくはまだ

ぼくになっていない

丘の向こうに赤い木が立つ

葉は耳 枝はまなざし

何も聞かず すべてを理解する

彷徨い人の 沈黙の歌を

ひとつの茶碗が唇を待っている

名前のないお茶で満たされて

口にふくむと 涙が流れる

名前のない場所が

彼の「home」となる

「おかえり」と影のない声が言う

ふりかえると そこにいるのは

子どものころに忘れた自分

手を伸ばす

でも すり抜けていく

ぼくはまだ

ぼくになっていない

ぼくはまだ

ぼくになっていない

石が眠る者に語りかける

「歩むごとに おまえは私の形になる」

彼は答えず

茶の種を植え

雨にゆだねて また歩き出す

風が消えても 歌は残る

沈黙の唇が そっと開く

心の奥にある扉が そっと揺れ

彷徨いが

旅の終わりへと変わっていく

02 白いドレス


ぬるい霧の谷に
光のない小川が石のあいだを流れている
水のそばにいる女は
毎朝一枚のローブを洗っている
まるでそれが最初の日のように


布は灰色の水の中をすべり
手はこすり、繰り返し、やさしくなでる
風は何も乾かさない
けれど女はぬるい石の上に
ローブを広げる まるで乾くかのように


ぼく――彷徨い人は、黙って立っている
彼女はほほえみ、近くに来るように手招きする
ぼくは布をねじるのを手伝う
布はぼくらの手からすべり出て
しばらくのあいだ流れにまかせる


ぼくはまだ
ぼくになっていないぼくはまだ
ぼくになっていない


太陽は決して完全に差し込まない
女はほとんど話さない、でもそこにいる
そして毎朝、同じことを繰り返す
ローブはいつも汚れている
でも やさしい香りがする


ぼくは質問をしようとする
けれど言葉は霧にのみこまれる
ただ今回だけは ローブが少し乾く
まるで何かが
そっと 果たされるかのように


ぼくはまだ
ぼくになっていない

ぼくはまだ
ぼくになっていない


夕暮れが境なく落ちてくる
女は日暮れのひだの中に消えてゆく
ローブは石の上に残る ほとんど乾いたまま
ぼくは水を見る
自分の感じているものが わからないままで

03 見守る火


丘の上にある空き家
割れた窓の向こうに光がともっている
ぼく――彷徨い人は近づく
部屋の中には一つの常夜灯
ずっと前から灯ったまま


灯りはゆっくりと踊る
まるで呼吸しているように
沈黙はあたたかい
ぼくは音を立てずに座る
炎を邪魔しないように


ぼくは手をのばす、ためらいながら
ぼくの息が灯りを揺らす
けれど消えない
ぼくは祈らずに そのままそこにいる
ただ そこに


ぼくはまだ
ぼくになっていない

ぼくはまだ
ぼくになっていない


時は過ぎる あるいは止まっている
ぼくは冷たさを感じる でも そこにいる
炎がぼくを見つめる
やさしい気配のように
なにも求めない


朝になると 灯りがちらつく
ぼくはそっと息を吹きかける
消すために
でも灯りはまた
ひとりでに灯る


ぼくはまだ
ぼくになっていない

ぼくはまだ
ぼくになっていない

04 澄んだ声


廃墟となった劇場に
澄んだ歌声が響く
ぼく――彷徨い人は奥の席に座る
舞台の上でひとりの女が歌う
もう存在しない王国の讃歌を


一つひとつの音が置かれていく
まるで小川に落とされた石のように
幕は動かず
客席は空っぽ
それでも彼女は まるで儀式のように歌い続ける


ぼくは目を閉じる
訪れたことのない国の気配が聴こえる
言葉の意味はわからない
でもその声はぼくの中を通り抜けて
扉を開いたままにしていく


ぼくはまだ
ぼくになっていない

ぼくはまだ
ぼくになっていない


彼女は誰も見ない
でも ぼくがいることを感じている
声はわずかに震え
そしてやわらかくなる
誰にも見られない 捧げもののように


歌が終わると 彼女は静かに一礼する
沈黙が劇場を満たす
そして彼女は 舞台の裏に消えてゆく
ぼくはひとり残る
胸の中に ひとつの鼓動を抱いて


ぼくはまだ
ぼくになっていない

ぼくはまだ
ぼくになっていない

05 ひびの入ったカップ


風にさらされる山の頂に
灰色のケルンが静かに立っている
一番上の石に置かれた一つのカップ
ひびが入っているが、倒れていない
ぼく――彷徨い人はそれに近づく


ぼくは手を伸ばすが、触れない
カップには少しだけ露がある
そのあとは、何もない
その空虚が反響する
忘れられた記憶のように


ぼくはその隣に腰を下ろす
理由もなく
指先の下でケルンが呼吸している
風がひびの中を通り抜けて
土を歌わせる


ぼくはまだ
ぼくになっていない

ぼくはまだ
ぼくになっていない


一羽の鳥が来て、一滴の露を飲む
そして飛び立つ
ぼくは動かない
この静けさがまるで
なにかをぼくに告げているかのように


ぼくはこのカップを持っていきたくなる
でもその空っぽさが重すぎて
ぼくはそれを置いていく
まるで呼び方のわからなかった
名前を そっと手放すように


ぼくはまだ
ぼくになっていない

ぼくはまだ
ぼくになっていない

06 乾いた本


岸のない裸の島の上に
一冊の開かれた本が石の台に置かれている
風がゆっくりとそのページをめくる
ぼく――彷徨い人は音もなく近づく
何かを妨げているのかどうかもわからずに


ページは空白だが 跡が残っている
誰かが指先で書いたようで
そして消したようで
最後まで書くのをためらったようだ


ぼくはそっと一枚に触れる
風が一瞬だけ止まる
ぼくは言葉を聴いた気がした
でもそれはただ
古い沈黙のこすれる音だった


ぼくはまだ
ぼくになっていない

ぼくはまだ
ぼくになっていない


ぼくは乾いた地面に座る
そして本をただ見つめる
ページは一枚ずつ白くなっていく
まるで ぼくが知らずに運んでいた光を
吸い込んでいるかのように


風が戻り、最後のページをめくる
それから去っていく
ぼくは本をそっと閉じる
そのまま そこに置いていく
そしてまた歩き出す 理由はわからないけれど 少し軽くなって


ぼくはまだ
ぼくになっていない

ぼくはまだ
ぼくになっていない

07 影の犬


赤い土の道を
ぼく――彷徨い人は 長いあいだ歩きつづけている
その後ろに 黒い犬が一匹
近くもなく 遠くもなく
音を立てずについてくる


曲がり角ごとに そこにいる
座って こちらを見ている
ぼくが立ち止まると
犬は遠吠えを上げて
そして 消える


夜が降りて 冷えが身にしみる
ぼくは火を 星を 声を探す
けれど 聞こえてくるのは
犬の吐息だけ
それは かすかな約束のようだ


ぼくはまだ
ぼくになっていない

ぼくはまだ
ぼくになっていない


ぼくは荷物をおろして 座る
犬はようやく近づいてくる
音もなく 目も合わさず
しばらく横になって
また影の中へと去っていく


ぼくはひとり立ち上がる
静けさが 少し違っている
まるで ぼくの中のなにかが
見られた気がする
理解されることなく


ぼくはまだ
ぼくになっていない

ぼくはまだ
ぼくになっていない

08 踊る砂


忘れられた石の庭で
ぼく――彷徨い人は裸足で歩いている
そよ風が砂を舞い上げる
つかのまのアラベスクを描いて
すぐに なにもなかったかのように消えていく


ぼくは消えていく足跡をたどる
ぼくの歩みは描かれ、すぐに奪われる
一瞬一瞬が ただひとつだけ
すべての形が招いている
けれど なにひとつ とどまらない


子どもの笑い声が風に乗って響く
でも 誰の姿もない
きらめき 一瞬の走り
そして 沈黙
まるで 相手のいない遊びのように


ぼくはまだ
ぼくになっていない

ぼくはまだ
ぼくになっていない


ぼくは形を残そうとする
棒で円を描く
でも風がすぐにそれをゆがめ
やさしく なにも言わずに 消していく


ぼくはひざまずいて
手のひらにすべる砂を見つめる
なにも とどめておけない
それでも なにか 本物のものを感じる
手のない なでるような気配
名前のない 存在


ぼくはまだ
ぼくになっていない

ぼくはまだ
ぼくになっていない

09 白い雄牛


裸の赤い平原の真ん中で
一頭の白い牛がゆっくりと回っている
大地を円く耕しながら
ぼく――彷徨い人はその縁に立ち止まる
問いのない謎を前にしているように


蹄が土を叩く音
一歩ごとに 記憶が舞い上がる
牛は振り向かない
急ぐことなく ただ進む
まるで 古い重みを運んでいるかのように


ぼくは呼びかけようとする
けれど どんな名前も浮かばない
ぼくはそっと地面に手を置く
円が震えているのを感じる
忘れられた心臓のように


ぼくはまだ
ぼくになっていない

ぼくはまだ
ぼくになっていない


やがて牛は歩みを止め
そのまま 耕した溝に横たわる
大地はあたたかく 空気は張りつめている
ぼくはゆっくり近づき
その前に静かに座る


言葉も 動きも 何もない
でも 何かが通い合う
裸のままの力 静けさ 差し出されたもの
円は終わった
けれど 物語は開いたまま


ぼくはまだ
ぼくになっていない

ぼくはまだ
ぼくになっていない

10 丸い苔


壁のない庭の中
苔がすべてを覆っている
ベンチ、石、道具、靴までも
ぼく――彷徨い人はそっと進む
沈黙を起こさぬように


一歩ごとに 足が少しだけ沈む
誰も拒まず 何も抵抗しない
すべてが丸く やさしく 古い
庭はゆっくりと呼吸している
眠っている体のように


一本の木の下 苔に覆われたベンチ
ぼくはそこに腰を下ろす
待つことなく ただ座り
語られないものに耳を澄ます
まるで場所そのものが 忘れることで語っているように


ぼくはまだ
ぼくになっていない

ぼくはまだ
ぼくになっていない


葉と葉のあいだを 風がそっと通り過ぎる
苔は震えるが 逆らわない
すべてを受けとめ すべてを飲み込む
それでも ぼくはよそ者のようだ
古すぎる静けさの中では


ようやく立ち上がる
少しの苔がぼくの服に残る
忘れられたやさしさの記憶のように
ぼくはゆっくりと立ち去る
自分が残したかたちを乱さぬように


ぼくはまだ
ぼくになっていない

ぼくはまだ
ぼくになっていない